この方を待ち望んで

2017.03.29.08:29

「主こそ私の受ける分」と私の魂は言い、
私は主を待ち望む。哀歌324

 キリストのお陰で、
今の恵みに信仰によって導き入れられ、
神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。ロマ52

 ヨハネ15917
 ルカ21519(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句3/29;水)

 滅びてしまうはずだったのだそうです。私たち人間は。
私たちの悩みとさすらいの思い出は、苦よもぎと苦味だけ。
これを思い出しては沈むばかり。
私たちが滅び失せなかったのは、天の神、主の恵みによることなのだそうです(哀歌3:19)。

 自分の〔的外れ〕な生き方の行きつく先は滅びでしかなかったのだそうですが、
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
私たちを、なお、惜しみ、愛し、憐れんでくださったのだそうです。

 それで、〔御子である神〕と呼ばれる方が、預言の言葉のとおりに、
天の栄光の座を後にして、
ダビデの子孫として生まれる、〔女の子孫〕として、
人間イエスとして人の世に来てくださり、
救い主、キリストとして、すべての人の身代わりとなり、十字架刑での処刑を受けてくださって、私たちが神のもとに帰る道を開いてくださったのだそうですから。

 私たちは、この、キリストであるイエスが自分のいのちを差し出して完了してくださった(ヨハネ19:30)手続きによって、〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えする者ともしていただき、神の子の身分を与えていただけ、神の家族として、〔父である神〕と心を一つにする者にもなり、神の同労者と呼ばれる栄光をいただく者ともしていただけるのだそうです。

 〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、〔父である神〕が、私たち一人一人を愛し、大事に思っていてくださる、その御思いが、私たちの心にも来て、私たちも、互いを大切に思い合う者ともしていただけ(ヨハネ15:9~17)、
口から出る言葉も、〔父である神〕が語ろうとしておられることを話す者ともしていただけるのだそうです(ルカ151415)。

 〔御霊〕を無限に与えられた(ヨハネ334)イエスが、
「わたしがわたし自身からは何事もせず、
だだ、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話している」と言われた(ヨハネ828)、そのように。
今日も。
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イエスがしようと思うことを何でもしていく者に

2017.03.28.21:00

 しようと思うことは何でもしなさい。
神があなたと共におられるのです。サムエル記上107

 何を話すにせよ、行うにせよ、
すべて主イエスの名によって行い、
イエスによって、父である神に感謝しなさい。コロサイ書317

 ヨブ記91423
  3235 ルカ2114(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句3/28;火)

 イスラエルに王がなかったころ、
天の神、主は、民の中から士師を立ててさばきつかさとし、
士師は神に聞きながら民の問題を解決していました。

 けれども、民は周りの国々のように王がいればと、
王制の弊害を説く預言者サムエルに、
「いや、どうしても、私たちの上に王がいなくてはなりません。
私たちも、ほかのすべての国民のようになり、
私たちの王が私たちをさばき、
王が私たちに先立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう」と王を立てるよう迫ったのだそうです。

 天の神、主は、サムエルに、
「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。
それはあなた(サムエル)を退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから」と言われ、サムエルを通して、イスラエル第1代目の王、サウルが立てられることになりました。

 あなたはイスラエルの王となるというサムエルの言葉が信じられなくて、
「どうしてあなたはこのようなことを言われるのですか。
私はイスラエルの部族のうちの最も小さいベニヤミン人ではありませんか。
私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、つまらないものではありませんか」と答えるサウルにサムエルは言います。
「あなたが、ペリシテ人の守備隊のいる町、神のキブアに入るとき、高きところから降りてくる預言者の一団に出会います。
彼らは預言をしていますが、主の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。
このしるしがあなたに起こったら、手あたりしだいに何でもしなさい。
神があなたとともにおられるからです。」(サムエル81107)と。

 「しようと思うことは、手あたりしだい何でもしなさい」とは、〔ともにおられる神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置かれる〔思うこと〕は、ということのようですね。

 事実、サウロは、サムエルから「私が着くまで7日間、そこ(ギルガル)で待たなければなりません」と言われていたのですが(Ⅰサムエル108)、ペリシテ人が攻めて来て、サウロは、ギルガルで、7日間、待ったのですが、サムエルは来ず、民は逃げて行こうとするので、サウロはサムエルを待ちきれず、ついに、自分で全焼のいけにえと和解のいけにえを神にささげたのだそうです。

神のことばに従わず、自分の理性の判断に従って行動した、このことが、サウロが王位から退けられることにつながったのだそうですから(Ⅰサムエル13515)。

 私たちも、〔聖霊を受ける〕と、今までの律法の束縛から解放され、〔生まれた時からの私〕という私自身も生き生きとし、元気になり、今までの、人に気を配りながら、おずおずとではなくなるので、主の思われるとおりにではなく、自分の思いのとおりにして、人をけとばしていくことにもなりやすいようです。

 しっかりと、〔生まれた時からの私〕は、イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて死んだものとなっており、〔生まれた時からの私〕から来る思いは、死んだものから出て来ている思いであることを認めて、神の前に差し出し、お渡しし、〔聖である霊〕と呼ばれる方から心に来る〔父である神〕が私を通してしようと思っておられる、その御思いについて行く生き方を理解しておかないといけないようです(ガラテヤ52425)。
もし、王であれば、御思いのとおりに、手あたりしだい何でもしていいのでしょうが。

 義人ヨブは、原因が自分には思いあたらない激しい苦しみの中にあって、神と自分との間を〔仲裁する者〕を望んだのだそうですが(ヨブ933)、
その仲裁者として、〔御子である神〕が人間イエスとなって人の世に来てくださり、
和解のいけにえとして、ご自身の身を十字架刑での処刑に差し出してくださって、
天の神、主と私たちすべての人間の仲裁をしてくださいました。

 そして、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来てくださって、受け入れる者の心に、〔父である神〕が一人一人に思ってくださっている御思いを置いてくださるのだそうです(エゼキエル36:25~28)。

 あの、レプタ銅貨二つをささげたやもめも(ルカ2114)、その、〔聖である霊〕によって心に置かれた御思いによって生きる人だったのでしょうか。

 私たちも、イエスの御名によって、イエスの代理人として、それぞれの、心に置いていただく、イエスがしようと思われる御思いを、そのとおりにしていく生き方をさせていただけるのだそうです。
今日も。
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眠ることもなく、まどろむこともなく、見守ってくださりながら

2017.03.27.09:20

どうか、主があなたを助けて、
足がよろめかないようにし、
まどろむことなく見守ってくださるように。詩編1213

 イエスはすぐ手を伸ばしてペトロを捕まえ、
「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。マタイ1431

 ヨハネ62635
 ルカ204147(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句3/27;月)

 私たちの助けは、天と地を造られた主から来るのだそうです。
この方は私たちの足をよろめかないようにと、
まどろむことなく、眠ることなく見守っていてくださる方なのだそうですから。

 イエスは、ヘロデ王が、捕えていたバプテスマのヨハネの首をはねたことを聞き、舟で寂しい所に行かれたのだそうです。
けれども、群衆は歩いてイエスのあとを追って来たのだそうです。
それで、イエスは、彼らを深くあわれんで、彼らの病気をいやされたのだそうです。

 陽が西に傾いて来て、手元には、パンが五つと魚が二匹しかなかったのに、イエスは彼らを空腹のまま帰らせるのはかわいそうに思い、
群衆を草の上に座らせ、
その五つのパンと二匹の魚を祝福して裂き、弟子たちが群衆に配ったので、群衆は食べて満腹し、残ったパン切れを集めると12のかごにいっぱいになったのだそうです。
女と子どもを除いて、男5千人ほどいたのだそうですが。

 そして、イエスは、弟子たちを強いて船に乗り込ませて向こう岸へ行かせ、ご自分は一人残って祈っておられたのだそうです。

 弟子たちは、風が向かい風なので波に悩まされていたのだそうですが、
夜中の3時頃、イエスが湖の上を歩いて彼らのところに行かれたので、弟子たちは幽霊だと思い、恐ろしさのあまり叫び声を上げたのだそうです。
イエスが、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われると、
ペテロが「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」と言ったので、
イエスが「来なさい」と言われたので、ペテロは舟から出て、イエスのほうへ行ったのですが、風を見てこわくなり、沈みかけ、「主よ。助けてください」と言ったので、イエスはすぐに手を伸ばして彼をつかんでくださったのだそうです(マタイ14131)。

 私たちも、沈みかけるようなときにも、ペテロのように、「主よ。お助け下さい」というと、眠ることもなく、まどろむことなく、近くにいてくださる方は、私たちの手をつかんで引き上げてくださるのですね。

 群衆は、イエスがなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言って、イエスをむりやり連れて行って王としようとしたのだそうです(ヨハネ61415)。

彼らが、向こう岸、カペナウムでイエスを見つけたとき、イエスは彼らに言われたのだそうです。
「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子(イエス御自身)があなたがたに与えるものです。
神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。
わたしの父は、天から真のパンをお与えになります。
神のパンは、天から下って来て、世に命を与えるものだからです。
わたしがいのちのパンです。
わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」(ヨハネ62235)と。

 そして、この後のやりとりで、多くの者がイエスから去って行ったのですが、
父である神は、自分の考えに合わないからと去っていく者ではなく、イエスの言葉に信頼して、イエスこそ、天から下って来た、永遠の命を与えるパンであることを知って、いのちを得る者になって欲しいと願っておられるのだそうです。
眠ることも、まどろむこともなく、見守っていてくださりながら。
今日も。
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希望があるのだそうです。私たちの未来にも。

2017.03.26.08:12

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。
だが、死ねば、多くの実を結ぶ。ヨハネ12243/26の週の聖句)

 あなたの未来には希望がある、と主は言われる。エレミヤ書3117

 近所の人々や、
彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、
「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」
と言った。ヨハネ98

 ヨハネ122026
 詩編84(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句3/26;日)

 一粒の麦が地に落ちて死ぬことで、多くの実を結ぶように、イエスは、ご自分のからだを差し出し、預言のとおりに十字架刑で処刑され、死ぬことによって、多くの新しいいのちが生きる道を開かれたのだそうです。

 私たちも、自分のいのちを愛し、自分をどこもまでも保とうとするならば、このイエスの死による救いを不要なものとして無視し、結果として自分を滅ぼし、そのいのちを失うことになるのだそうです。

 しかし、もし、自分のいのち、
[「神のひとりのようになり、善悪を知る者」(創世記3522)になっている〔生まれたときからの私〕という霊]は、
造り主である神に逆らい、自分を滅びに至らせてしまう、自分を不幸にするものであることを知って、その自分を憎む者は、
イエスの十字架刑での処刑に、その自分を重ね合わせて、処刑が終わっているものとしてくださる、〔父である神〕からのプレゼントを受け取ることによって、永遠のいのちをいただく、受け取る者になるのだそうです。

 私たちも、私たち自身である〔生まれたときからの私〕という霊を、一粒の麦のように、死んだものとしていただくなら、
新しい霊として、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣していただけて、
この方によって、
〔父である神〕を愛し、
〔父である神〕の御思いのように生きたいと願うようになり、
〔父である神〕の御思いを心に置いていただけて、
〔父である神〕と思いを一つにして、
〔父である神〕が私を通してしようと思っておられることをしていく者にしていただけるのだそうです。

 それで、私たちも、あの、イエスに見えるようにしていただいた、生まれつき目が見えなかった人のように(ヨハネ9138)、
イエスの御思いについて行く者となり、
家族や近所の人など、自分のことをよく見、知っている人たちに、イエスの御業の証拠となり、
多くの新しいいのちを起こしていく者ともしていただけるようです。

 私たちの未来には、希望があるのですね。
ひとりの女が一人の男に嫁ぐように(エレミヤ3122)、
天の神、主と一つになる関係に入れていただき(創世記126、ヨハネ172123)、
「万軍の主。
あなたのお住まいは、なんと、慕わしいことでしょう。
私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。
私の心も、身も、生ける神に喜びの歌をうたいます」(詩篇8412新改訳)と歌う者にしていただけるのだそうですから。
この新しい週も。



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イエスを死者の中から復活させ、天上のあらゆる名の上に置かれて

2017.03.25.08:06

この事を起こし、成し遂げたのは誰か。
それは、主なるわたし。
初めであり、後の代と共にいるもの。イザヤ書414

 神は、キリストを死者の中から復活させ、
天において御自分の右の座に着かせ、
すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、
今の世ばかりでなく、来たるべき世にも唱えられる
あらゆる名の上に置かれました。エフェソ書12021

 ガラテヤ書6:(11131418
 ルカ202740(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句3/25;土)

 この事、直接的には、メディア・ペルシャの王クロスが勝利に勝利を重ね、ついにはバビロンを滅ぼす、そのことをさしているようです。
そして、これを起こし、成し遂げるのはわたしだと、天の神、主は仰るのですね。

 さらには、御子である神を、人間イエスとして人の世に遣わし、
この方を、ユダヤの指導者たちの妬みにより、
ローマの権威のもとで、反逆者として十字架刑で処刑し、
この方を三日目に使者の中から復活させ、
天の、御自身の右の座に帰らせ、
すべての天使たちの上に置き、
あらゆる名の上に置いたのは〔わたし〕だ、と。

 さらには、受け入れる者を、このイエスの十字架刑での処刑に重ね合わせて、受け入れる者の〔生まれたときからの私〕という霊を処刑されたもの、死んだものとし、
受け入れる者に、ご自身の右の座におられる、御子である神・イエスを通して、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣し、
この方によって、受け入れる者の心に、ご自身の、一人一人に対して思っていらっしゃる御思いを置き、
受け入れる者がご自身と思いを一つにし、心を一つにする者となり、ご自身の御思いによって生きるようになる、
その、受け入れる者が、自分に死に、新しい霊で生きるという新創造の道を開き、成し遂げたのは〔わたしたち〕(創世記126、ヨハネ172122)だとおっしゃるのですね。
私たちへの、人間に対する愛の熱心において。

 それで、この、イエスによって成し遂げられた御業をいただく者は、
死者の中からの復活と来たるべき世、やがて実現する新しい世界を受け継ぐ希望に生き、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
〔父である神〕と心を一つにするという新創造の中を生きるのだそうです(ガラテヤ615、ヨハネ3:3)。
今日も。



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