願いを聞き、涙を見てくださる方への信頼において、

2018.05.28.08:40

 主はこう言われる。
わたしはあなたの祈りを聞き、
涙を見た。
見よ、わたしはあなたをいやす。
列王記下205

 ラザロが病気であった。
姉妹たちはイエスのもとに人をやって、
「主よ、
あなたの愛しておられる者が病気なのです」
と言わせた。
ヨハネ1123

 出エジプト31320
 ヘブル書11822(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句5/28;月)

 南ユダ王国の王、ヒゼキヤは、病気になって死にかかっていた。
そこへアモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。
「主はこう仰せられます。
『あなたの家を整理せよ。
あなたは死ぬ。直らない。』」

 そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って、言った。
「ああ、主よ。
どうか思い出してください。
私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、
あなたがよいと見られることを行ってきたことを。」
こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。

 イザヤがまだ中庭を出ないうちに、
次のような主のことばが彼にあった。
「引き返して、わたしの民の君主ヒゼキヤに告げよ。
あなたの父ダビデの神、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗る者、
主はこう仰せられる。
『わたしはあなたの祈りを聞いた。
あなたの涙も見た。
見よ。わたしはあなたをいやす。
三日目には、あなたは主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗る者の宮に上る。

 わたしは、あなたの寿命をもう15年加えよう。
わたしはアッシリアの王の手から、あなたとこの町を救い出し、
わたしのために、
また、わたしのしもべダビデのためにこの町を守る。』」

 イザヤが「干しいちじくをひとかたまり、持って来なさい」と命じたので、
人々はそれを持って来て、腫物に当てた。
すると、彼は直った」(イザヤ2017新改訳)。

 兄弟のラザロが病気になったとき、
マルタとマリヤは、イエスの所へ使いを送って、
「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」
と言ったのだそうです。

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
私たちの願いを聞き、
私たちをいやしてくださる方。

 マルタとマリヤは、このイエスが、
その、天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方(出エジプト31320)、
〔御子である神〕であることを認めて、
こう言い送ったということなのでしょうね。

 この方への信頼において、アブラハムは、
相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、
これに従い、
どこに行くのかを知らないで、
出て行き、

その信頼によって、
彼は約束された地に他国人のようにして住み、
同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。

 この方への信頼によって、アブラハムの妻、サラも、
すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。
彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。

 この方への信頼によって、アブラハムは、
試みられたとき、独り息子のイサクをささげ、

 イサクは、未来のことについて、
息子のヤコブとエサウを祝福したのだそうです。

 この方への信頼によって、ヤコブは死ぬとき、
ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、
また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝し、

 ヨセフは臨終のとき、
イスラエルの子孫の(エジプトからの)脱出を語り、
自分の骨について、
(約束の地に持って行くよう)指図したのだそうです(ヘブル11822)。

 私たちも、この方への信頼において、
十字架刑での処刑を受け、
死んで葬られ、
三日目に死人の中から新しい霊のからだに復活した
イエスを通して来てくださる、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる、
〔父である神〕の御思いの中に出て行くのですね。
この方の行うわざを行う(ヨハネ1412)ようにと。
今日も。

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思い起こし、心に留め、願い求めて

2018.05.27.08:11

 聖なる、聖なる、聖なる万軍の主、
主の栄光は、地をすべて覆う。
イザヤ書635/27日の週の聖句)

 遠くから主を思い起こし、
エルサレムを心に留めよ。
エレミヤ書5150

 どのような時にも、
‟霊“に助けられて祈り、願い求め、
すべての聖なるものたちのために、
絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。
エフェソ書618

 ヨハネ318915
 詩145(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句5/27;Ⅳ日曜)

 〔父である神〕、
〔御子である神〕、
〔聖である霊〕と呼ばれる神は、
それぞれ、聖である方、
人間との延長をもたない、人間とは完全に別なる方。

 そして、その方の栄光は地をすべて多い、
全地に満ちている、と、
もっとも、御座近くで仕えている天使、
セラフィムは賛美しているのだそうです。

 そして、捕囚の地、バビロンにあったとしても、
天の神、主、「『わたしはある(I AM)』と名乗られる方を
思い出し、思い起こし、エルサレムを心に思い浮かべるように、と。

 十字架刑での処刑を受け、
墓に葬られ、
三日目に死人のうちより新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れて
自分が生きていることを見せ、
神の国について語ったのち、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、
天の、〔父である神〕の右の座に帰られたイエス。

 そのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方が、
私たちの心に〔父である神〕の御思いを置き、
〔父である神〕がしようと思われることを、
私たちの願いとし、志としてくださって、
祈るよう導いてくださるというのですね。
根気よく、忍耐の限りを尽くして。

 〔父である神〕は、
イエスの処刑によって、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている
私たちの〔生まれたときからの霊〕を
処刑されたもの、死んだものとしてくださるのだそうです。

 そして、さらに、このイエスを通して
もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を
受け入れる者に派遣してくださるのだそうです。

 受け入れる者を、「生まれたときからの私」に死んで、
新しく生まれた者、
〔生まれたときからの私〕という霊から来る思いで生きるのではなく、
この方、〔聖である霊〕と呼ばれる方がが心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いで生きる者にしてくださるというのですね。

 風が思いのままに吹き、
私たちはそれがどこから来てどこへいくのかを知らないけれど、
その音を聞き、木の葉が揺れるのを見るように(ヨハネ318)。

 それで、私たちも、うたうのですね。
ダビデとともに。

 私の神、王よ。私は、あなたをあがめます。
あなたの御名を世々限りなく、ほめたたえます。
日ごとにあなたをほめたたえ、
あなたの御名を世々限りなく賛美します。
主は大いなる方、大いに賛美されるべき方。
その偉大さは測り知ることができません。
代は代へと、あなたのみわざをほめ歌い、
あなたの大能のわざを告げ知らせるでしょう。
私は栄光輝くあなたの主権と、
あなたの奇しいわざに思いを潜めます。
人々はあなたの恐ろしいみわざの力を語り、
私はあなたの偉大さを述べるでしょう。
人々はあなたの豊かないつくしみの思い出を
熱心に語り、
あなたの義を高らかにうたうでしょう(詩篇14515、新改訳)、と。

 この聖なる、聖なる、聖なる方を思い起こし、
心に留め、御名を呼び、
御心が地に、私に成ることを望みながら。
この新しい週も。

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見えないもの、父である神の御思いを見えるかたちにする生き方を

2018.05.26.11:40

 主よ、
私の口に見張りを置き、
唇の戸を守ってください。
1413

 ただ、この自由を、
肉に罪を犯させる機会とせずに、
愛によって互いに仕えなさい。
ガラテヤ書513

 使徒18111
 ヘブル書1117(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句5/26;土)

 心に満ちていることが口から出て来るのだそうですね。
だから、唇の戸を守ることが、
「私の心を悪いことに向けさせないでください」(詩篇141:4)
ということでもあるのでしょうね。

 そして、心の思いは、その奥にある霊から来ているのだそうです。
ここでパウロが言う「肉」とは、
この肉体のことではなく、
〔生まれたときからの私〕という霊のことを言っているのだそうです。

 その、私たちの〔生まれたときからの霊〕は、
最初、天の神、主、「『わたしはある(I AM)』と名乗られる方の、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」との願いによって
創造されたものなのだそうです(創世記126)。

 しかし、最初の人、アダムとエバは、
その、神のかたち、
〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊と呼ばれる神〕が、
愛において、自由意思で、自発的に一つになっておられる、
心を一つにし、行動を一つにし、存在を一つにしておられる、
その神との一つの場にとどまることをせず、
もっと偉い者に、
神のようになり、善悪を知る者になろうとして(創世記35)、
「神のひとりのようになり、善悪を知るようになった」(322)のだそうです。

 それ以来、私たち人間は、
「神のひとりのようになり、善悪を知るようになった」者として生まれ、
生まれながらにして、天の神、主に背き、
かみに対立、対抗して、
自分を神よりも上のものにしようとする性質を持っているのだそうです。

 そして、この創造の目的からのズレ、「的外れ」の結果、
人間同士においても、
自分を他よりもえらい者、立派なものにしないと気が済まず、
そうなれないと劣等感に落ち込み、
人の上に立って権力を振り回したい者、
人を引きずり下ろし、
良いもののすべてを独占し、
77倍の復讐をしようとする者(創世記424)となり、
「人がその心に計ることがみな、
いつも悪いことだけに傾く」(創世記65)ようになったのだそうです。

 それで、私たち、
その、〔生まれたときからの私〕という霊から来る思いが心に満ち、
その心の思いが口から出て来る、ということなのだそうです。

 だから、律法、戒めや道徳によって、
口から悪い言葉を出さないように努力しても、
内にある〔霊〕は今までと同じで、
心を変えることは出来ないのですね。

 天の神、主、「『わたしはある(I AM)』という者と名乗られる方は、
その「的外れ」になっている私たちを、
ご自身と心を一つにする者に取り戻そうとして、
この人間の歴史の中で、ご計画を実行して来られたのだそうです。

 〔父である神〕は、〔御子である神〕を人間イエスとして人の世に派遣し、
この方を私たちすべての人間の身代わりとして立て、
この方がおよそ33歳の頃、
ユダヤ人の指導者たちの妬みを用いて捕らえさせ、
ローマ兵の手によって十字架刑で処刑し、
イエスの処刑が終わったことで
私たちの処刑が終わったことにしてくださったのだそうです。
私たち自身である〔生まれたときからの私〕という霊の死亡手続きを済ませて。

 そして、受け入れる者に、もう一人の助け主、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって私たちの心に、
私たち一人一人に思っておられる、ご自身の御思いを置いてくださり、
受け入れる者が、ご自身と一つ心になるようにしてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28、ヨハネ17:21~24)。

 私たちが、〔生まれたときからの霊〕がしようと思うことをするのではなく、
イエスがそうであったように(ヨハネ8:28、1250)、
ご自身がしようと思われることをしていく者に(ヨハネ1412)。

 それで、パウロは、私たちが、
私たちに与えられている自由によって、

(死亡手続きが終わっている〔生まれたときからの私〕という霊)
から来る思いによって行動するなら、
自分が人の上に、人の前に出ようとし、
互いに批判し合い、さばき合い、引きずり下ろし合うことになるけれど、
〔聖である霊〕と呼ばれる方から来る
〔父である神〕の御思いによって行動するなら、
愛によって互いに仕え合うようになりますよ、と言っているようです。

 アテネを去って、コリントへ行ったパウロは、
神の御心に従って(マルコ727)、
ここでもまず、神の民として選ばれたユダヤ人に、
イエスがキリストであることを証ししたのですが、
ユダヤ人たちは受け入れなかったため、
異邦人にイエスを伝えることになり、
身の危険があったにもかかわらず、
神のことばに従ってコリントにとどまり続け、
1年半、ここに腰を据えて
神のことばを教え続けたのだそうです(使徒18111)。
早く安全なところに行きたい
肉(〔生まれたときからの私〕という霊)の思いは
イエスの前に差し出し、ながめながら、
口を神に明け渡して、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が語らせられるままに。

 神への信頼において、
私たちは望んでいることの保証、
まだ目に見ていないものの確信をいただけるのですね。

 この世界が神の御思い、ことばによって造られたように、
見えるもの、
私たちの行動、口から出る言葉も、
見えないもの、
〔父である神〕の御思いから出て来ている
(ヘブル1113)、
その生き方を受け取るようにと。
今日も。

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悔い改めにふさわしい実、御霊の実を結ばせようと

2018.05.25.09:39

 万軍の主の日が臨む、
すべて誇る者と高慢な者に、
すべて高ぶる者に
――彼らは低くされる――。
イザヤ212

 洗礼者ヨハネの言葉:
悔い改めにふさわしい実を結べ、
「我々の父はアブラハムだ」
などという考えを起こすな。」
ルカ38

 ガラテヤ書315
 ヘブル書103239(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句5/25;金)

 万軍の主と呼ばれる方、
天の神、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方が来られるのだそうです。

 その日には、金や銀、富で満ち、自分の力、戦力を誇り、
偽りの神々、人間の手で造った物を拝み、
驕り高ぶっている者、自分を誇る者は
恥を見ることになるのだそうです。

 自分がアブラハムの子孫、イスラエル民族だ、ということも、
さらに言えば、
実際の生活は、神との関係を無視し、
自分の思いのままに生きていながら、
「私は洗礼を受けました。
クリスチャンと呼ばれる者になりました」ということも、
神の前に立てる足がかりにはならないということでしょうか。

 血肉のからだに属することは、
神の国を相続できないのだそうですから(Ⅰコリント1550)。

 その日には、それぞれが、
生けるまことの神とどのような関係をもって生きるか、
ということだけに心を向けるようです。

 悔い改めにふさわしい実、
天の神、主は、私たちが、
〔生まれたときからの私〕という自分自身である霊が、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて、
創造の目的からずれ、
「的外れ」になっている者であることを認めるようにと
願っておられるようですね。

 そして、その私たち自身を
イエスの十字架刑での処刑に合わせて、
処刑が終わっている者、死んだものとしてくださり、

〔聖である霊〕と呼ばれる方を、
私たちの身代わりとなって十字架刑での処刑を受け、
墓に葬られ、
三日目に、死人のうちより、新しい霊のからだに復活し、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエスを通して、
派遣しくださって、

 この方によって、
ご自身の思いを受け入れる者の心に置き、
私たちが、ご自身と思いを一つにし、
心を一つにし、
行動を一つにしていく、
その生き方を受け取ってほしいのだそうです。

 自分の力で、神のことばのとおりを生きようと努力する生き方、ではなく、
伝えられ、聞いた約束のことばに信頼し、
御霊、〔聖である霊〕と呼ばれる方の働きを
受け取る生き方をしてほしいと(ガラテヤ315)。

 だから、確信を持ち続けてほしいのだそうです。
神の御心を行なって、約束のものを手に入れるためには
忍耐が必要なのだそうですから。
期待して待つことが。

 もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。
おそくなることはない。
わたしの義人は信仰によって生きる。
もし、恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。

 天の神、主は、私たちを、恐れ退いて滅びるものではなく、
信頼して命を保つ者にしてくださっているのだそうですから(ヘブル10:35~39)。

ご自身と心を一つにして歩む者にと。
今日も。

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幸い!なのですね

2018.05.24.09:08

いかに幸いなことでしょう、
背きを赦され、
罪を覆っていただいた者は。
321

 イエスの言葉:
この人が多くの罪を赦されたことは、
わたしに示した愛の大きさでわかる。
赦されることが少ない者は、
愛することも少ない。
ルカ747

 Ⅱコリント3289
 ヘブル書102631(通読箇所)
   (ローズンゲン「日々の聖句」5/24;木)

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』と名乗られる方は、
私たちのそむきを赦し、
「的外れ」をおおい、
ご自分との正しい関係に連れ戻してくださる方なのですね。
最初から。天地の造られる前から。

 だから、自分のそむき、「的外れ」の大きさに気づき、苦しんでいる者は
この方のもとに来て、言い表し、赦しを願うのだそうです。

 ダビデが、
「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、
私の骨々は疲れ果てました。
私は、自分の罪を、あなたに知らせ、
私の咎を隠しませんでした。
私は申しました。
『私のそむきの罪を主に告白しよう。』
すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました」(詩篇3235
とうたっているように。

 自分の赦されなければならない罪が、少し、と思っている人は、
少しの感謝、少しの愛ですが、
多く赦される必要があると分かり、
その多くの罪を赦していただいた者は多く愛するのだそうです。
500デナリ
(例えば500万円)の借金を返すことができなくて
赦してもらった人と、
50デナリ
(例えば50万円)の借金を赦してもらった人の違いのように。

 あるパリサイ人
(自分は神に熱心で、律法を守っており、一般の人たちのようではないと自負していた人)
イエスを食事に招いたのだそうです。

 彼は、食事に招くこと自体で
イエスに対する尊敬を充分に表していると思っていたのでしょうね。
それで、大切な客にはする、
家に入って来た時に出す足を洗う水を出さず、
口づけもせず、頭に油を塗ることもしなかったのですね。

 ところが、その町で罪深い女と知れ渡っている人が、
香油の入った石膏のつぼを持ってそのパリサイ人の家に入って来て、
イエスのうしろで御足のそばに立ち、
涙でイエスの足をぬらし、
髪の毛でぬぐい、
イエスの足に口づけして、
香油を塗ったのだそうです。

 これを見たパリサイ人は、心ひそかに、
「この方
(イエス)がもし預言者なら、
自分にさわっている女がだれで、
どんな女であるか知っておられるはずだ。
この女は罪深い女だから」と思ったのだそうです。

 しかし、イエスは言われたのだそうです。
「わたしは言います。この女の多くの罪は赦されています。
彼女は多く愛したのですから。
赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」

 そして彼女に、
「あなたの罪は赦されています。
あなたの信仰
(神への信頼)があなたを救ったのです。
安心して行きなさい」(ルカ73650、一部、新改訳2017)、と。

 モーセを通して結ばれた最初の契約は、
天の神、主の御思いが石の板に書かれ、
私たちは、自分の努力でこのことばのような生き方をしようとするもの、
文字に仕えるものでした。

 その結果は、このパリサイ人のようであり、
私たちの罪を確定し、死に導くものでした。

 新しい契約は、
イエスの十字架での処刑により、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている、
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を、
処刑済み、死んだものとし、

 墓に葬られ、
三日目に、死人のうちより、新しい霊のからだに復活し、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
私たちの心に
〔父である神〕の御思いを置き、書きつけて、
受け入れる者の心を一新し、
受け入れる者が〔父である神〕と同じ思いを思い、
一つ心になって生きる、
私たちを「御霊に仕える」生き方をする者に(Ⅱコリント36)、
新しく生まれさせる(ヨハネ336)もの、なのだそうです。

 私たちは、人となられた神の御子、イエスが、
十字架刑での処刑においてささげてくださった血によって締結された
この新しい契約(ヘブル1029)に生きる者にしていただけるのだそうです。

 大きなそむき、「的外れ」を赦していただきながら、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いの中、
私を通してしようと思っておられる栄光の御業の中に。
今日も。

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